公益社団法人 日本婦人科腫瘍学会 25周年記念事業

座談会
創立25周年記念

第1回 座談会

出席者(50音順)
青木 大輔先生(元理事長、慶應義塾大学教授)
岡本 愛光先生(副理事長、東京慈恵会医科大学教授)
西田 正人先生(功労会員、国立病院機構霞ヶ浦医療センター名誉院長)
野田 起一郎先生(名誉会長、近畿大学名誉学長)
長谷川 壽彦先生(名誉会員、国立病院機構栃木病院名誉院長)
三上 幹男先生(理事長、東海大学教授)
八重樫 伸生先生(元理事長、東北大学教授)

三上

遡れば1998年、子宮頸部病理・コルポスコピー学会が改名して、日本婦人科腫瘍学会が創設され25周年という、大きな節目を迎えました。この記念事業の一つとして3回の座談会を開催する予定です。本日の第1回座談会は、学会創設を担われた先生方にお集まりいただき、その歴史を紐解くとともに、将来への提言をいただく会と位置づけています。つきましては名誉会長の野田起一郎先生を囲んで、長谷川壽彦先生、西田正人先生、八重樫伸生先生、青木大輔先生、岡本愛光先生にお集まりいただきました。皆さま、本日はよろしくお願いいたします。

日本コルポスコピー
研究会の発足と合併まで

三上

早速ではありますが、野田先生より、本会の源流である日本コルポスコピー研究会の発足当時についてお話をいただけると幸いです。

野田

日本コルポスコピー研究会ができたのは1975年ですが、その節目を迎えるまでの経緯をまずお話したいと思います。日本で細胞診による子宮がん検診は1961年、宮城県で始まったわけですが、そこから10余年過ぎた1972年に、集団検診でチェックされた患者さんを対象に精密検査がどんなふうに行われているのか、対がん協会の方などと一緒に調べたことがあるんです。すると細胞診でチェックアップされた患者さんの75%はコルポスコピーを使わないで精密検査をやっていたわけです。では「なぜコルポスコピーを使わないのか」と考えてみたら、普及しない理由がいくつか見えてきました。そうであるならば、皆さんで話し合いをして、精密検査にコルポスコピーを使うという方向に日本の診療を持っていこうと。そのために立ち上げたのが1975年の日本コルポスコピー研究会というわけなんです。

普及の進まなかった原因は、一つにterminology(用語)が難解ということでした。そもそもドイツ人のヒンゼルマンがコルポスコピーを発明したのは1925年、私が生まれる2年前のことです。彼はコルポスコピーの所見をドイツ語で整理し、やがてそれが用語として使われるようになりました。日本でもそれを忠実に訳して使っていたわけですが、診ている人が「名前と所見が一致しない」と言うわけです。これこそがコルポスコピーが普及しない理由の一つではないかということで、日本コルポスコピー学会は新しい分類を考えるに至りました。するとちょうど同じころ、1975年の第2回IFCPC(国際コルポスコピー学会連合)でも、新コルポスコピー所見分類が公にされたんです。すなわち、私たちが日本コルポスコピー学会を作って、日本語で新分類を作ろうと考えていた時に、Internationalでも同じような動きが見られた。こうした動きのシンクロナイゼーションが、その後のコルポスコピーの発展における礎になったと捉えております。

野田先生
野田先生
野田先生
野田先生

三上

長谷川先生はその辺りのことで何かありますでしょうか?

長谷川先生
長谷川先生

長谷川

私はコルポスコピー研究会の発足から関わっておりまして、野田先生、天神先生、栗原先生のもとで幹事役を担いました。具体的に何をやったかを申し上げますと、最初は「それぞれの所見をどのように表現するか」という、言わば勉強会です。そこを足掛かりにきちんと分類を決めていきましょう、と進めてゆきました。野田先生がおっしゃったように、1975年にはオーストラリアで行われた第2回IFCPCにて新分類が発表されております。
当時のコルポスコピーにまつわる動きをさらに振り返りますと、ヨーロッパ、主としてドイツ、また南米で発展してきた経緯があります。それでIFCPCにおいても第3回をアメリカ人のスタッフル(Adolf Stafl:チェコ生まれのアメリカ人)がやるとなりまして、日本にはおそらく日本産婦人科学会宛てに「こういう学会をやるのだけど、日本にはカウンターパートがあるかい」という問い合わせが入りました。そこでコルポスコピー研究会があるじゃないかとなりまして、「是非名乗りを上げてくれ」という打診を頂き、参加を決めました。さらに1981年、ロンドンでの第4回IFCPCで「次の学会は日本でやってほしい」と言われて、1984年、栗原先生を会長として第5回IFCPCを日本で開催するに至りました。

長谷川先生
長谷川先生

このようにIFCPCへ参加し日本が重要な役割を担うようになった理由として、IFCPCは、今までのコルポスコピーはドイツ・南米が中心だったけれど、ゆくゆくはアジアを含めて全世界的に発展させたいんだと考えていました。さらにもう1つ夢があって、スタッフルは日本の良質なNikonの接写レンズを使って、それでコルポスコピーの写真を撮りたい。その写真を専門のセンターに送付すると、熟練した人がその写真で判定して、ここから生検しなさいという指示をくれる。そんなことをやりたいと考えていたそうです。しかし思えばアメリカでもほとんど成功していませんでしたよね。彼らは成功しているつもりだったみたいですが…。

私がコルポスコピーを教わった栗原先生は、「コルポスコピーというのは所見をどうやって出すかに時間をかけていきなさい」とおっしゃっていました。時間の経過を見て所見を判断するということも徹底的に教わったと記憶しています。これこそが私にとってのコルポスコピーの第一歩ですよね。ただ先ほども述べた通り、多くの先生は所見の出し方がよくわからなかった。それが日本の中でコルポスコピーが思ったより普及しなかった一因だと考えています。

三上

まさに先生のおっしゃったことを私も慶應で習いました。

長谷川

いかに所見を出すかがわからなければ、コルポスコピーはわからないんだというのが栗原先生の考えでしたね。それに基づいて叩き込まれたのが私たちなわけです。

野田

もっと前の話をすると、安藤畫一先生の時代なんですけれど、安藤先生は単眼のコルポスコープというのを考案して、筒状で30cmほどのものを作ったんです。そしてその器械を持って日本国中を回りまして、そのときカバン持ちとしてついて回ったのが栗原先生でした。

しかし、それは非常に使い勝手の悪い器械なんです。筒を入れ込んで、眺めるわけですが、鉗子を入れることもできませんから、結局外して肉眼でパンチするしかない。ですから使った方は「一体これはなんなんだ」と思ったでしょうし、コルポスコピーの普及という意味ではネガティブに働いたのではないかと。これは栗原先生自身も仰っていました。

三上

天神先生も本会の歴史に深い関わりがありましたが、野田先生は、何か思い出はございますか?

野田

では、少し思い出話をさせていただきます。
栗原先生と天神先生と私は、三者タイアップして色々やってきたと思われているかもしれませんが、実は最初の頃は喧嘩ばかりしておりました。学会などで必ず意見が対立するんです。
どういうところでかと申し上げますと、天神先生もコルポスコピーを大事にされている点は共通ながら、「診療施設で患者さんを診るわけだから、コルポスコピーと細胞診を両方検査する必要がある」という立場でした。私は集団検診の細胞診でスクリーニングして、ピックアップされた人をコルポで診るんだという見地でした。必然的に私は細胞診の精度を上げるために強く擦過して採取していたのですが、天神さんはコルポも両方やらなければいけないからと、綿棒でそーっと細胞をこすって、コルポの像を壊さないようにとやっていたのです。さらに栗原さんはと言うとコルポオンリーの立場でしたから、三者三様、それぞれ違ったわけです。学会ともなれば、とにかく猛烈なディスカッションをしておりました。

長谷川

栗原先生は決してコルポスコピーだけというだけではなくて、「細胞診をどういう格好で使えばいいんだ」ということも突き詰めて考えられていました。そして、その時から、先ほども申し上げたように「所見をうまく出すのが難しい」と仰っていました。そういう意味でコルポを熱心になさった印象が強いですが、実際には細胞診で異常がある人は正確なコルポをやって、いわゆる「狙い組織診」をやるべきだという考えをお持ちでした。決してコルポだけ、細胞診だけという立場でなかったことをここに補足させていただきます。

野田

はじめの頃の学会は、それぞれの意見が白熱していました。極端に言えば栗原先生は自分のコルポの分類を作るくらいですから、コルポに関して非常に詳しい。私はとにかく「まずは細胞診だ」という立場でして、天神さんは外来へ来る患者をなめるようにして検査するような人でした。このようにそれぞれの立場があって、学会で顔を合わせればいつも議論していましたね。そのうち、なんだ、結局同じことを考えているんじゃないかと気づいて、あまり喧嘩をしなくなったものです(笑)

長谷川

目的は、そう、一緒なんです。それは山に登る時の登山路が違ったような格好ですね。

三上

岡本先生は天神先生の思い出など何か思い出をお持ちですか?

岡本

先日、天神先生がいらっしゃった佐々木研究所付属杏雲堂病院の副院長の坂本優先生にお会いして、天神先生の思い出話をしたんですけれど、まずはお人柄が非常に真面目で、気配りがすばらしい一方で、時間に対して非常に厳しい方だったそうです。

杏雲堂病院にいらしたときはオリンパスの顧問をされていて、コルポスコピーの開発とか臨床応用へ非常に熱心に取り組まれていて、コルポスコピーの重要性を日頃から熱弁されていたと聞いています。

岡本先生
岡本先生
岡本先生
岡本先生

三上

3人の先生のお人柄を感じながら、同じ目的に向かって議論して進められていたという楽しい話を聞くことができました。