公益社団法人 日本婦人科腫瘍学会 25周年記念事業

第1回 座談会

4学会の合併を取り巻く
人物模様とハイライト

三上

さて、ここからはコルポスコピー研究会が3学会と合併して婦人科腫瘍学会が立ち上がるまでのエピソードをお聞きしたいと思います。

野田

4つの学会を合併しようと考え始めたのは1998年だったと思います。当時、コルポスコピー研究会は日本子宮頸部病理・コルポスコピー学会となっていました。ですが、その頃に腫瘍関係の学会を合併しようかという議論が交わされていたことから、準備として日本子宮頸部病理・コルポスコピー学会が婦人科病理・コルポスコピー学会と名前を変更します。そして1998年にいち早く、より広く婦人科腫瘍全般を対象にした学会であることを明確にするため、日本婦人科腫瘍学会と名前を変えたわけです。

三上

なるほど1998年より少し前に議論されて、子宮頸部病理・コルポスコピー学会は日本婦人科腫瘍学会へと名前を変えたわけですね。

野田

それぞれの成り立ちとそれぞれの形がある学会を統合するというのは非常に難しいと。だからまず、うちがまず腫瘍学会になっちゃおうよというのが始まりなんです。

西田先生
西田先生

西田

西田先生
西田先生

野田先生が以前、学会名称に関してお話されていて感銘を受けたことで言うと、コルポスコピーにしても腫瘍マーカーにしても、研究方法の名称を冠した学会だった。これは当然、それが盛んになって、ある一定の役目を終えれば、価値としては漸減されていく。学問の名前にしておけばそういうことはないんだよ、とおっしゃっていましたね。だから婦人科腫瘍学会なんだ。これは学問の名前だから、役目を終えることがない。そうしたことから、統合するならそういう名前にすべきだということでした。

三上

1998年から3年間、色々な学会が折衝していった時に野田先生が非常に苦労したという話は伺っております。

野田

日本婦人科腫瘍学会というのは、コルポスコピー研究会という流れがまずあって、それと子宮癌研究会、もう一つは婦人科腫瘍化学療法学会、さらには産婦人科腫瘍マーカー・遺伝子診断学会という、この4つが一緒になったわけです。

そもそも子宮癌研究会というのは私が会長で、婦人科腫瘍化学療法学会も私が会長、そして婦人科腫瘍マーカー・遺伝子診断学会は慶應の野澤先生が会長を務められていました。そうして合併に持っていきやすいような体制が整っていたことから、急に議論が進んだわけです。

それぞれの学会は成り立ちに限らず人数も違えば、指導的立場を執る人たちの顔ぶれも違いますから、合併するまでには3年を要しました。ただその間、色々な折衝が随所にあって、それだけの年月をかけたからこそ、合併してからは円滑な運営ができたのではないかと今でも思っております。

三上

青木先生は当時、野澤先生と一緒にお仕事されていたかと思いますが、その時の苦労話などはご存知でしょうか?

青木

確かにあの当時、野澤先生が学会統合にむけた根回しに奔走をしていたことをよく覚えています。それと、当時の幹事長であった進先生が事務的なことは全部引き受けてやっていました。

思い出してみると、子宮癌研究会と婦人科腫瘍化学療法学会、婦人科腫瘍マーカー・遺伝子診断学会それぞれに思い入れがあるなかで、私たち若手にとっては全てに演題を出せと言われていて、さらに婦人科腫瘍学会ですから、それはもう大変なことでした。ですので4つの学会が一緒になってからは、、「しっかりとそこでさえ勉強しておけばよいんだ」といった気持ちになれたことを覚えています。日本婦人科腫瘍学会として統合されたことは当時の若手としては歓迎できたことでした。

青木先生
青木先生
青木先生
青木先生

三上

西田先生はその時代で印象に残っていることなどありますか?

西田

印象に残っているのは卵巣腫瘍の登録委員会です。これが私にとって一番面白かった。当時、卵巣腫瘍と言えば慈恵医大が主導でした。卵巣腫瘍に対する知見も知識も少なかった時代に、卵巣腫瘍を持ち寄って、夏休みの学生実習室で全部の標本を全員で見るんです。これが冷房もきいてなくて暑くて。でも朝から晩まで時間制限は無いですから、一例一例全部の標本を丹念に見ていって、そのあとでオーソリティが一例ずつディスカッションして診断を決めていくんですね。これがすごく勉強になりました。高名な先生方が手を挙げて一例一例ディスカッションしていくのですが、なかなか意見がまとまらないことがあるんですね。あるとき全く診断がつかないということがありまして、そうしたら座長が「牛島先生いかがですか?」と会場に投げた。私は名古屋大の牛島宥先生の本は読んでいましたけれど、まさかその牛島先生!?と思ったら、階段教室の一番上からおじいさんが降りてきまして。マイクの前に行って、「amelanotic melanoma、間違いありません」と言って、すーっと戻っていかれたんです。

この時に、病理というのはすごい学問だと感嘆しました。私は学会のディスカッションであれほど感動したことはありません。言われてみれば皆納得できたのだと思います。会場はしばらく沈黙に包まれて、座長が「ではそういうことで」と総括しておりました(笑)。

野田

確かに素っ裸ではちまきで、汗だくになって、といったような会でしたね(笑)。真夏の暑い時で、とても印象に残る研究会でした。この卵巣病理研究会は子宮頸部病理・コルポスコピー学会と一緒になって、そこで日本婦人科腫瘍学会という名前になったんですよ。それが1998年のことで、当時の卵巣腫瘍の研究会も今の組織の中に入っているんです。

しかし一緒になるには成り立ちも考え方も違うわけで、いざ合併しても役員はどうするんだ、となったものですから、それぞれの学会の役員を全員役員にしろということになりました。おかげで役員だけで100名くらいになってしまったのではないでしょうか。

長谷川

そうですね、合併した当初は「役員をやめてくれ」と言うわけにもいきませんから。大所帯でしたね。

三上

八重樫先生は何か思い出ありますか?

八重樫

私も慈恵には何度か行きましたから、懐かしく聞いておりました。婦人科腫瘍学会と合併した学会のひとつに子宮癌研究会があるんですが、そこのディスカッションというのは、一つのテーマを集中して話す。今も、あの雰囲気っていうのは他の学会には無かったなぁ、あの雰囲気は統合しても残さなければいけなかったのかな、と思うこともあります。合併した当初はそういった雰囲気があったように思いますが、今になって振り返ると、その雰囲気は大切にしていきたいなと思っていました。

三上

確かに私も子宮癌研究会には出たことありますけれど、議論を集中してやっている印象を持っていました。演台に上がった人はずっと出ずっぱりでしたよね。

八重樫

2時間くらい喋るじゃないですか、今考えるときつかっただろうなと。聞いている方は面白かったですけれどね。

野田

それが結局形骸化し、6分講演で3分意見交換とかっていうふうになってしまって、それであの雰囲気がすっかりなくなってしまったんですよね。

三上

時間通りに進めていかなければいけないけれど、確かにディスカッションをするというのは重要で、今後の学術集会の在り方については、先生方のそういうご意見を含めて考えていきたいですね。

三上

それでは次の話題に移ります。昨今では本会が、アジア婦人科腫瘍学会、国際婦人科癌会議、IFCPCといった様々な学会の窓口になってきたのですが、先生方の時代で海外との関わりについて何か思い出に残っていることはございますか?

野田

コルポスコピー研究会ができた1975年の時点でIFCPCと関係を持ち、今後はIFCPCの受け皿としてやっていくべきだと考えていました。

そこから色々な経緯があって、栗原さんが会長というところまでいったわけです。一方で、IFCPCの一員と名乗る上で収納しなければならない会費がかなり高いものになっていました。実際のところ、日本はその時点で学問をリードしている立場でしたから、そんな高い会費を払ってまで会員になっている必要はないのではないかと天神先生から進言があり、あるとき日本はIFCPCから脱退することとなりました。

長谷川

IFCPCとの関係としては、そのころinternational terminologyにも変化が見られまして、子宮頸部病理に関する用語が取り入れられ、治療方針を含めたような分類を作ってしまいました。それでは、所見を中心とした日本の現状とは合わない、ということで退会に至りました。私は少なくともそういう見方をしておりました。

三上

現在、岡本さんは渉外として外国と付き合いを進めている立場かと思いますが、昔の話で聞いたことなどはありますか?

岡本

これにちなんでは、片渕前理事長がIFCPCともう一度連携を結ぼうと言われて、その結果、藤井先生が理事の方に入られたということも伺っております。正直なところ、今こうして聞くまで「なぜIFCPCの活動には積極的に関与していなかったのだろう」と思っていたのですが、そういう経緯があったのですね。

それとIGCS(国際婦人科癌会議)についてはは2027年くらいに日本で誘致しようという話が出ていますが、IGCSは今すごく教育に力を入れていまして、特に日本のコルポスコピーやターミノロジー、こちらの方を是非ボランティアで日本からアフリカ・東南アジアへ教えにいってほしいというお声がけを頂いております。そうした動きが今後、誘致に繋がったらと考えているところです。

三上

八重樫先生と青木先生はASGO(アジア婦人科腫瘍学会)の関係もおありかと思いますので、その辺で話をいただけますでしょうか?アジアとの関わりはどうでしょうか?

八重樫先生
八重樫先生

八重樫

八重樫先生
八重樫先生

私がワークショップをやった時は、韓国と台湾という三か国との関わりが非常に良かったです。その前から行き来していた間柄で、お互いの顔と名前が一致してきて、年代も同じくらいで、向こうにも行きやすい。ああいう雰囲気が海外の学会で作れていたというのは、婦人科腫瘍学会という受け皿があってこそと捉えています。

青木

私もそう思います。実は2017年、単独開催をやりましたところ、開催実績が無いことを理由に展示での協力が企業から得ることができませんでした。。それ以来、やはり受け皿があるということが非常に大事だと思うようになりました。もう一つはこの学会ではないのですが、2016年に国際臨床細胞学会を開催したことがあります。その時は日本臨床細胞学会という受け皿があったわけで、多くの会員が参加してくださいました。ですから常々、国際学会という立場にしても経済的な側面にしても、受け皿があるべきだということを痛感する次第です。

岡本

私はKGOG(韓国婦人科腫瘍学会)に何度か呼ばれて講演に行ったことがあるのですが、その時に韓国の方が野澤先生のことを口々に仰っていたのですよね。私は野澤先生のコネクションの取り方がいかに冴えていたかをその時に垣間見ました。それが今のASGOにも繋がっているように感じます。