公益社団法人 日本婦人科腫瘍学会 25周年記念事業

第1回 座談会

理事長時代、濃密な
二年間の記憶を辿る

三上

それでは次の話に進めていきたいと思いますが、青木先生・八重樫先生は理事長を務められたとのことで、それぞれの先生方から記憶に残っていることがもしあればお聞かせいただきたいです。

八重樫

それでは私から。2016年から2年間理事長を拝命したなかで一番記憶に残っているのは、専門医制度ですね。ちょうど婦人科腫瘍学会の専門医制度が始まって10年ほど経ったところで、色々なところが現状にそぐわなくなっているという話になりました。例えば内視鏡手術が入ってきて、現場でもやらざるを得ない、あるいは保険も適用されるという流れになりました。その10年ほど前は婦人科腫瘍で内視鏡をやるなんて、というネガティブな意見があったのに、変化してきたわけです。それに応じて国も動き出してきましたから、私たちはどう移行していくかという整理を求められていた時代でした。あとは症例数や在籍する病理医の要否など、縛りも出てまいりまして、専門医制度の整理を求められておりました。それが大きな仕事だったように記憶しています。またHBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)の話が出てきまして、これは青木先生に本当にご尽力いただきましたけれど、そうやって数年前は考えられなかったようなことをいかに現場に落としていくか、というところに奔走しておりました。振り返ると、現状にあわなくなってきたものを整理しつづけた2年間だった印象です。

三上

青木先生はいかがですか?

青木

八重樫先生の後、2018年から2年間、理事長を務めさせていただきました。実は八重樫先生が理事長をやられている最後の理事会で、八重樫先生が「2年間は短い」という話をされていて、当時私はその意味がよくわかりませんでした。ですが、自分の任期が間近になってくると「確かに短いかもしれない」と思い始めまして、その時点で副理事長ながら、2つの提案をさせていただきました。 

そのうちの一つは、日本医学会の加盟に舵を切ってほしいということです。日本臨床細胞学会の話をしますけれど、私が幹事になって最初の仕事が日本医学会の申請書を書くことでした。そこから幾度となく落選し、やっと通ったときに、それなりのノウハウ的なものがわかった気がしておりました。それで日本婦人科腫瘍学会においても、少し足りないものはあるけれどなんとか行けるのではと思っていたので、機関決定をしていただきたく提案させてもらったのを覚えています。もう一つは、センチネルリンパ節生検の保険収載にむけたワーキンググループの発足を提案させていただきました。理事長になった時にすぐそういったことができるように、少し前倒しではありますが当時提案させていただきました。

日本医学会に話を戻すと、学会のプレゼンスということを考えた時に、一つのステータスだと私は思っております。いくつか他の学会を見た時に、我々の足場になる婦人科腫瘍学会がまだそこに届いていないという評価であることが悔しいわけです。日本医学会に加盟するための要件として「欠けているのは英文誌だ」と思いまして、目をつけたのがJGOです。韓国ではKSGOから始まった学会誌であったJGOがASGOの国際雑誌になったと聞いて、なんとかそこに入り込めないかと思ったのです。

当時Editor in chiefであったRyu先生はJGOをインターナショナルにしたいという思いがありましたから、2019年にはJGO誌を婦人科腫瘍学会のオフィシャルジャーナルとすることができました。ここまでいけば日本医学会も文句はないだろうと思いまして、申請に至り、2021年に加盟することができた経緯です。

あとは、任期中にLACCトライアルの結果が出て、腹腔鏡下広汎子宮全摘出術の安全性について再検討が必要となり、そうこうしているうちに後半はコロナ禍に見舞われてしまいますので、今考えると短かったように感じる次第です。

青木 八重樫 西田 三上
青木 八重樫 西田 三上

野田起一郎先生から頂いた印象的な言葉や思い出

三上

ここからは話題を変えまして、名誉会長である野田先生、そして天神先生、栗原先生のおひとなりについて、皆様からお話を伺いたいと思います。八重樫先生は東北大学の学生時代から野田先生と親交があったと聞いておりますが、その頃の思い出はいかがでしょうか。

八重樫

私は昭和53年の東北大学入学でして、野田先生は昭和49年に近畿大学に移られていることから、あいにく一緒に教室の中でお世話になったことはありません。ただ、ご子息の野田哲生先生が昭和49年に東北大学に入られていまして、私の4年上、かつクラブが野球部で一緒でありました。しかも自分がキャプテンのときに東医体を主幹する学年でしたから、キャプテンと監督という間柄にもなりました。思い出深いのは、私の入学した昭和53年に、野田哲生先生がなぜか産婦人科のカルテ整理のバイトを紹介してくれたことがありました。なぜ野田哲生先生が産婦人科のバイトを持ってくるんだろうと、その時は不思議に思っておりました。カルテの表紙にも、当時主治医の名前が書いてあって、野田起一郎先生の名前が書いてある。「ここにも“野田”って人がいるな、関係あるのかな」と、その時初めて意識しまして、後にご関係を知って合点がいきました。
当時、起一郎先生は昭和30年代から近畿に移られるまで、今は東北大学病院に統合された長町分院で勤務されていました。その頃にがん検診も始められて、検診制度をつくられて、検診をして細胞診を診るとか、そうしてみつけた患者は長町分院で手術されるとか、そういった場所であったのだなと思い返します。野田先生は、いつも手術をされてから東北大学の本院へこられていました。私が入局した頃から「野田先生は終わってから教室に来られて、全部の標本を作って、病理チェックして、さらに細胞診を診られていた」と伝説になっていました。そこから当時は私たちの間でも「自分たちでまず病理を診るんだな、細胞診を診るんだな」という雰囲気があったことを覚えています。
本日の話のなかにも検診学会、臨床細胞学会、手術学会、子宮癌研究会があったんですけれど、当時、思えば昭和30年代からずっとぶれないでやられている方なのだなと感服します。学生の頃はあまりわからなかったですが、入局してからはそれをすごく感じるようになった次第です。

三上

西田先生も野田先生との思い出は何かありますか?

西田

最初に野田先生がすごいと思ったのは、日本臨床細胞学会で先生が指導医会長として座長をつとめられていた時のことです。指導医会では先生方から様々な意見が出るんですけれど、野田先生は意見が出ているときにはじっくり聞いていらっしゃって、最後に座長としての方針を出される段になると、意見が集約され、皆が納得できる形になっているんです。野田起一郎というフィルターを通ることによって論点が整理され、議論がすごくわかりやすくなる。凄い能力だと思いました。

これは理科系には無い、文化系の能力だと思いまして、私は勝手に「先生は文化系だな」と決めさせて頂きました。その後、先生と初めてお話をしたときにその話をさせて頂いたところ、ご本人は「ははは」と笑っていらっしゃいました。(笑)
それと野田先生と天神先生の掛け合いも忘れられません。婦人科腫瘍化学療法研究会で子宮頸癌のプロトコール委員に選んで頂いた時のことです。頸癌のプロトコール委員会には野田先生だけでなく天神先生も出席されていました。天神先生は多方面に博識でいらっしゃって、とうとうと語って色々なことを教えてくださる。天神先生の話が一段落すると、野田先生がとても巧妙に、ちょっと皮肉を込めて天神先生の話しを茶化すんですね。そうすると、天神先生が待ってましたとばかり大袈裟に悔しがるんです。これを見て私は「お二人は仲が良いんだな」と感じました。プロトコール委員長だった長谷川和夫先生に「高級漫才を見せて頂いた気分です」と話すと、「みんなあれが聞きたくて来るんだよ」と仰ってました。

野田先生ご本人からすれば色々議論があった間柄と仰っていましたが、下から見ていると、栗原先生も含めてすごく仲の良いお三方だったのではないかと感じています。

三上

長谷川先生はいかがですか?

長谷川

私は野田先生・天神先生・栗原先生には大変お世話になったもので、お三方についてちょっと裏話的なものをさせていただこうと思います。
天神先生の素晴らしいところは、非常に幅広い知識があって、特に行政に対する知識が豊富だったことです。おかげで厚生省のお役人と一緒にディスカッションするような場があっても、老人保健法をこういう風にしましょうと提言することができて、これぞ天神先生の力があってこそだったように思います。

次に野田先生ですけれど、ちょうどIFCPCがあった年、どうしても野田先生に見てもらわないといけない書類がありました。それで新幹線で大阪にお伺いした時、奥様が「うちの野田はとにかく真面目で夏休みも取らないんですよ」と嘆かれまして、ですが私もその当時は栗原先生にしごかれっぱなしで、休みは2~3日取ればいい方だったんです。ですからそれを奥様に申し上げたところ、野田先生が「そうだろ」と喜んでくださったのを覚えています。覚えていますか?

野田

覚えていません。

長谷川

それが私にとっては、野田先生のことで一番印象に残っているエピソードです。
さて栗原先生については、こんな記憶がございます。「明日、子宮頸がんの手術だ」という日があって、術前の話をして、お前とやるんだと言われたことがありました。迎えた翌朝、栗原先生より早めに行かなければと手術室へ向かい、手洗いして消毒して準備をしておりました。そして「支度できました!」と先生に連絡したところ、始めててくださいとの伝言でした。始めた後、何度も連絡するのですが結局、来ない。最後まで終わって栗原先生のところに顔を出しましたが、「やぁご苦労さん」という一言だけで終わりました。色々な教育があるのでしょうけれど、手術の指導はこういう風にやるんだと、栗原先生からは教わったわけです。私も同じように一度はやってみようと思いましたが、結局のところは全然できませんでした。それほどの度胸はなかったんでしょう。
そういうことで、お三方の裏話的なものをお話しました。

三上

岡本先生はいかがですか?

岡本

少し遡りますが、2012年の教授就任パーティーで野田先生にお話しいただいた際のエピソードを紹介します。その挨拶で、私も全く予想してなかったのですが、私が1990年代に行った遺伝子の研究についてお話しくださったのです。慈恵の誰も覚えていないような研究だったにも関わらず、先生は詳細に説明くださいました。私は予想もしてなかった展開に、大変感銘を受けました。これも野田先生の人柄、鋭い視点やご指摘、人をすごく見ていらっしゃる上に抜群の記憶力があってこそだと感じております。。

三上

それでは私からも思い出話をしたいと思います。野田先生は私にとって殿上人のような存在で、直接お話したのも私が教授になってからかと思います。2006年に教授になったのですが、それから3~4年後、JSGO(日本産科婦人科学会)の頸癌委員長にさせていただいたのです。野田先生は委員会に必ず出席してくださっていました。野田先生からは「色んなことをすぐ変えなくていいから」とおっしゃっていただきましたが、野田先生は頸癌の治療に関して命を懸けてこられたと思うと、そのあとを引き継がなければと緊張して司会をしていた覚えがあります。自分が今この立場になって、頸癌のガイドライン、手術に関してもまとめるなど色々できたのは、野田先生の後押しがあったからこそと感謝しています。

八重樫 西田
野田 長谷川
八重樫 西田
野田 長谷川