公益社団法人 日本婦人科腫瘍学会 25周年記念事業

第2回 座談会
創立25周年記念

第2回座談会 ~歴代理事長に聞く~

学会を取り巻く専門医制度と
治療ガイドライン

出席者(理事長就任順)
安田 允先生(名誉会員、東京慈恵会医科大学客員教授)
嘉村 敏治先生(名誉会員、久留米大学名誉教授)
吉川 裕之先生(名誉会員、筑波大学名誉教授)
八重樫 伸生先生(監事、東北大学教授)
片渕 秀隆先生(監事、熊本大学名誉教授)

片渕

公益社団法人 日本婦人科腫瘍学会の25周年を記念して第1回の座談会が昨年の11月に開催されました。その際は野田起一郎名誉会長をお囲みし、学会創設にご尽力いただいた先生方にお集まりいただきました。そこでは25年間の歴史の歩み、そして将来の提言について語っていただいております。 そして今回は、これまでに理事長を務められた11人の先生方のうち、第3代の安田允先生、第6代の嘉村敏治先生、7代の吉川裕之先生、8代の八重樫伸生先生にお集まりいただきました。テーマとしましては、学会の二本の柱であります専門医制度、そして治療ガイドラインを中心に語っていただきます。

理事長時代の業績や
苦労を紐解く

片渕

前段として、4人の歴代の理事長の先生から、理事長時代のご業績やご苦労、最後に展望までを語っていただきたいと思います。まず2006年から2008年までの期間お務めになりました安田允先生からお願いします。

安田

今日はお招きいただきありがとうございます。この学会の思い出を振り返ると、若手の頃はそもそも各研究会や学会が非常に多くて、色々なところで2か月に1回くらい開催されていたことを思い出します。そしてまた会費が高かったもので、若手にとってはかなり大変だったんですね。 それで当時、野澤志朗先生が三大巨匠であります“野田栗原天神”(野田起一郎先生、栗原操寿先生、天神美夫先生)に掛け合って、一つの腫瘍学会をつくりたいということで大活躍をされて、野澤先生が初代の理事長になったと記憶しています。

野澤先生が一番苦労されたのが、会計ですよね。学会をつくるにしてもお金がなかったわけです。ですから研究会・学会の会計担当を集めて各学会の所持金など熱心に議論されていた思い出があります。それがうまくいってやっと腫瘍学会ができまして、私が理事長をやったときには3つのポイント、すなわちガイドライン、専門医、施設認定、その3つを確立しようというのが最大の課題でした。それを踏まえ準備していき、ガイドラインに関しては蔵本先生が日本癌治療学会で発表していたのですが、思うように評価されなくて。そのあと宇田川先生に繋がっていき、宇田川先生は非常に熱心に取り組まれ確立していきました。構造化抄録なども作られて大変だったんですが、やっとスタートラインに立てたのが非常に思い出に残っております。

安田先生
安田先生
安田先生
安田先生

片渕

それでは次に嘉村先生、2012年から2014年までの理事長をお務めになりました。嘉村先生のときには公益社団法人に認定を受けるというマイルストーンの最初でもあります。それではお願いします。

嘉村先生
嘉村先生

嘉村

私が理事長時代の思い出としては、学会の公益法人化と学術集会の集約とアジアとの交流です。当時日本産科婦人科学会が公益社団法人になり、日本婦人科腫瘍学会もその公益性から公益法人化を考えました。当時、総務担当常務理事であった慶應大の青木先生のご尽力により公益法人化を達成することができました。
次に学術集会の集約化についてお話します。当時は春と秋の2回学術集会が行われていました。秋は日本癌治療学会を始めがん関連の学会が多数行われているので、多忙な婦人科腫瘍医のことを考えると春の学術講演会に集約することを考えました。一方、専門医取得や更新に重要なクレジットを獲得する機会を維持するために秋に1日だけの研修会を行うこととしました。この集約化は副理事長の筑波大の吉川先生を中心に進めていただき、研修会のプログラム編成など後に残るシステムも作っていただきました。

嘉村先生
嘉村先生

最後にアジアとの交流ですが、私が本会の渉外担当理事をしていたころに日本と韓国が中心となってアジア婦人科腫瘍学会(ASGO)が設立されました。事務局は韓国婦人科腫瘍学会にあり、私の理事長時代に本学会が日本側の受け皿となることに会員皆さんの賛同をいただきました。資金も乏しい中でASGOの学術集会は2年毎に開催され、その中間年はワークショップが開催されています。本年12月1-3日は台北で第8回ASGO学術集会が行われます。多数の会員の皆さんの出席をお願いいたします。

片渕

嘉村先生のことで私個人が思うのは、これだけ国際化が進んでいる基盤になったのは、渉外委員長を2002年からなさったことで、先生と韓国の先生方のタイトな繋がりではなかったかと思います。おかげで今は韓国の先生方とも親しくさせていただいておりますし、交流が進んでおりますが、嘉村先生の尽力が基盤として、そこに進んでいけているのではないかと強く感じます。

安田

1年に2回学会があったという話が出ましたけれど、2回の学会を開催したのは野田先生のお考えで、当時は腫瘍を専門とする教授が少なかったということから「学会をたくさんやって回していけば、みんなが教授になっていくだろう」というのが年2回開催の背景だったようです。春と秋に分けて、春には卵巣腫瘍の病理を診るとか、そういう風に診断と治療に分けた内容になっていったようですね。

片渕

それは第1回の座談会の時も八重樫先生が仰っていましたね。

八重樫

はい、それにこの学会がすごく盛り上がってきたのと並行して、全国の産婦人科の教授の中に主任教授が増えていきました。その結果、今では全国の産婦人科主任教授の半分以上が腫瘍専門医という印象です。そういう観点でみても本学会の果たした役割は大きいと感じます。

吉川

私が筑波大学にいた時、都内は主任教授で腫瘍専門はいなかった。ほとんど生殖か周産期。それくらい腫瘍は押されっぱなしでした (笑)。

片渕

では次に引き継がれました、吉川先生です。2014年から2016年まで理事長を務められましたが、吉川先生は本学会の理事の時代から非常に多くのことをしていただきました。その辺りのことを是非お願いします。

吉川

まず私が理事長を務める前になりますが、野澤先生の功績というのが大きいように感じています。自分は2002年の時に初めて学術委員会の常務理事をやらせてもらったのですが、おそらくそのとき野澤先生は50代前半の人だけで常務理事を固めて、それより上の人は集会長候補みたいな形で区別していらっしゃいました。しかもわりと全国の学閥などを越えた人選をされていたので、全体のまとまりを良くするという点での功績も大きかったように思います。
専門医制度に関しては、2002年の安田先生の頃に専門医試験をやりました。私はたまたまそのときに日本臨床腫瘍学会の理事もやっていたのですが、臨床腫瘍学会の専門医制度では理事は、できるだけ専門医試験は受けないようなムードがありました。ただ、婦人科腫瘍学会では「理事もできるだけ受けよう」っていう流れがありました。だから第一回専門医試験のときは、教授も自ら面接を受けるようになっていましたよね。制度が根付くのにすごく役に立ったと思います。その頃のリーダーが自らリスクをかけたことが良かったなと思います。

それから、研修会の方も副理事長だった私と教育委員会の櫻木先生が一緒に準備していたのですが、プログラムをつくることから始まりました。この研修会が今も続いているというわけです。
私が理事長になった頃に、学術集会長の選考というのが結構問題になっていました。私はこの件に最も詳しい野田名誉会長に「これは日本産科婦人科学会のように理事会で選挙するようにする形にするのか、学会中枢メンバーによる選考委員会で選考する形でやるのか」と相談しながら進めたわけです。理事会での話し合いでも、最終的には日本産科婦人科学会のような形がいいのかもしれませんが、移行期としては選考委員会のような数名の委員で決めていくといった形が妥当なのではないかということで始めさせていただきました。

片渕

学術集会長の担当の選挙は私の時が初めてでした。資料を提出した上で委員会において所信表明をし選考するという、それは大きい転機だったのではないかと思います。

吉川

そして選考委員のメンバーが不思議なくらい意見が一致するんです。そんなに割れることがなく。最終的には投票なのですが、非常に見識のある先生ばかり集まっていて、妥当な選考が行われたので軌道に乗ったように思います。「誰が見てもこの人しかいないね」という形で決まっていきましたから。

嘉村

先ほど2回を1回にしたという話がありましたが、実は秋の集会は一般演題がありませんでした、慣習的に。聞くだけの学会になってしまっていたのです。「それならば学会という名前をつけなくてもいいのではないか」ということで、先ほど話があったように吉川先生へ「研修会という形にしましょうか」と持ち掛けたのでした。でも学術集会長になれる人が少なくなって、その点は申し訳なかったなと思っています。

片渕

私は2回が1回になったというのは学会の形としてすごく良かったのではないかと考えています。どうしても学術集会長になれる先生が限られますから、それは残念ではあるのですが…。私としては年に1回、総会を兼ねて学会をするとしたことは、この組織にとってのターニングポイントだったと思います。どうでしょうか?八重樫先生。

八重樫

私が理事長になったのは2016年からですが、各種関連学会が統合されたて十年ちょっとたった頃になります。ちょうど組織として充実し活動が活発になってきて良い感じでした。小さい学会や研究会がバラバラにあった頃に比べると一本化されたスケールメリットが出ましたし、婦人科腫瘍に関しては本学会でオーソライズするという雰囲気が定着してきて、非常にいい時期に理事長をやらせていただき良かったなと感じています。

片渕

八重樫先生に仰っていただきましたように、今日ご参加いただいている理事長の先生方のことを考えますと、安田先生は黎明期をしっかりつくっていただいた時代で、嘉村先生と吉川先生は激動の中で色々なシステムを作り替えられ、色々なことを考えられてご苦労なさったのではないかと。それで、私の認識では八重樫先生くらいのときにようやく固まった上で、クオリティをいかによくしていくかというフェーズに入っていたと思います。そう思うと八重樫先生は、かつてガイドラインの委員長や専門医制度の委員長など色々なことを踏まえて理事長になられましたので、その点では濃密な2年間だったように私は思います。八重樫先生は2年間を振り返られていかがでしょうか?

八重樫

2001年か2002年に野澤先生が本学会を法人化された際に「やらなければいけないことが2つある」と仰られていました。1つはガイドラインで、もう一つは専門医制度です。まさか二つとも自分が主として関わることになるとは思っていなかったですね。今ではガイドラインや専門医制度があるのが当然のようになっていますし、専門医制度はきちんと運営されて当然、ガイドラインは定期的に改訂されるのが当然となっています。 野澤先生は未だ何も無いときに2つの旗印を前面に出され、私たちは25年突っ走ってきましたので、今更ながら野澤先生の先見性に感服しております。

吉川

1996年あたりにNCCN(The National Comprehensive Cancer Network)のガイドラインができたんですね。それが影響してて、我が国で胃がんのガイドラインができました。日本の胃がんのガイドラインは、最初はクオリティの低いガイドラインだったんですよ。私は胃がんガイドラインを評価するメンバーだったんですが、NCCNのものを参考にされた方がいいと提案しました。NCCNのガイドラインは飛び抜けていたわけです、あれを真似するしかないと。婦人科腫瘍では、化学療法が進んでいたせいか、NCCNのガイドラインの情報が広がっていて、企業もNCCNのガイドラインを配っていたんです。ですから婦人科腫瘍は実は下地ができていたということです。

八重樫

こういったことは大概、五大がんから始まるものですね。ところがガイドライン作成に関しては胃がんの次に卵巣がんのガイドラインが発刊となり、とびぬけて早かったと思います。プラチナ製剤やタキサン製剤など卵巣がんに有効な抗がん剤の使用が広がっていたことも理由の一つだったように思います。