公益社団法人 日本婦人科腫瘍学会 25周年記念事業

第2回 座談会

宇田川先生を偲び、
思いを語る

片渕

この場には本当は宇田川先生に来ていただいて、思い切り色々話していただきたかったのですが、残念なことにかないませんでした。その宇田川先生は初代のガイドライン委員長ということで、献身的にガイドラインを推進されていました。さきほどお話に出ていた野澤先生の一番弟子ということもあったかと思います。
今日私がこうして座長をしている繋がりを考えると、実は宇田川先生がこの学会に引っ張ってくださったことが始まりです。私が教授に就任したのは2004年ですが、2006年に日本産婦人科学会の学術講演会でセミナーを担当したことがありました。そのときのテーマは肉腫で、座長をしていらっしゃったのが宇田川先生と八重樫先生でした。終わった後に声を掛けていただき、「君は今度ぜひ日本婦人科腫瘍学会のガイドラインの委員をしなさい」と。そう言われたことがきっかけでしたから、宇田川先生のお声がけがなかったら、ここでこうして私が進行をしていることはなかったなと思います。宇田川先生のおかげでこの学会で色々なことをさせていただいたことに、心から感謝している次第です。 先生方も宇田川先生の思い出話が色々おありかと思いますので、是非ここで語っていただければと思います。安田先生いかがでしょうか?

安田

宇田川先生は慶應義塾大学で、慈恵と慶應は非常に仲のいい都内の大学でしたから、しょっちゅう色んな学会でお会いしていました。ただ片足が不自由でいらしたので、随分大変だなと思っていましたね。それと日本婦人科腫瘍学会に関しましては、非常に積極的でした。当時の教授達に積極的に意見を言う方で、非常に感心しました。それ以外の時も学会の活動にアクティブな先生でした。それが印象に残っています。

嘉村

宇田川先生のガイドライン委員会で発揮される気合に私はいつも感心していました。いいガイドラインを作るんだという気概にあふれていました。この精神はその後のガイドライン委員会にも引き継がれていると思います。
個人的な思い出話になりますが、宇田川先生は、慶應大時代は野澤教授のかばん持ちをしておられて、私は九大時代に中野教授のかばん持ちをしていました。両教授は仲が良かったので、よくご一緒されていました。そこでかばん持ち同士で私が宇田川先生と会う機会がありました。その頃の宇田川先生のお話で、「奥様と一緒に飛行機に乗らない」と仰っていました。理由をお尋ねすると、万が一、飛行機が落ちたら子供たちが親なし子になるからということでした。しかし子供さんたちが成人されたのちは何回も夫婦同伴で海外の学会にご一緒させていただきました。

吉川

私もガイドラインに関して、同じ時期に日本産科婦人科学会でガイドラインの調整役をやっていたのですが、宇田川先生はよくやられているなとみていました。それで、ガイドライン作成の原則などについて発言させてもらうことがありました。宇田川先生は本当に、あの当時ガイドラインをつくるというのは相当ストレスだったと思うんですよね、周りの期待も大きいし。だけど、外から見ていてよくやられていると感心しておりました。

片渕

八重樫先生はガイドライン委員会の中で長きにわたりパートナーでいらっしゃったと思うのですが、いかがでしょうか?

八重樫先生
八重樫先生

八重樫

八重樫先生
八重樫先生

宇田川先生とはガイドラインの委員会の前の段階ですでに接点がありました。2001年のことなのですが、この時のJGOGのプレセプターシップは宇田川先生を含む5人の先生が第4回のメンバーに選ばれてアメリカに行く予定だったのですが、9.11の事件があって延期となりました。その結果、私を含む第5回のメンバーが第4回と合同で、プレセプターシップが行われました。2グループ合わせて9人が10日間、SGOの学会に参加したり施設や手術の見学をしたりしながら、朝昼晩一緒に行動しましたので、すごく仲良くなりました。特に宇田川先生とは気が合いいろいろな話をしました。帰国して数か月後に本学会にガイドライン委員会が立ち上がり、委員長が宇田川先生、副委員長が私となりましたが、これは宇田川先生の推薦だったと思います。

宇田川先生は仕事を任せてくれる方でしたし、責任を取ってくれる方で、あまり細かいことを言われないし、仕事は非常にやりやすかったですね。そうそう、宇田川先生は爬虫類が好きなんですよね、ワニを抱いたり、へびを体に巻いたりとか、平気でやるんですよ。私にはとても無理ですが(笑)、そういう写真が残っています。私がガイドラインの仕事に関わり始めたのは42歳からで、その後の10年間はそれにかかりきりでしたが、非常に充実していて、とても楽しかったです。宇田川先生とコンビを組めたことは本当に有難かったです。

片渕

私も長く親しくお付き合いさせていただいた中で覚えていますのは、宇田川先生はお父様の赴任先が福岡だったんですね。だから夏休みのたびにお兄さんと二人で長期滞在して福岡に住んでいたと。それで福岡県のことも隅々までご存じなんですよね、びっくりしたことを覚えています。多くの思い出がありますが、宇田川先生はものすごく記憶力がよくて、全国の地図から私の秘書さんまで全部名前をお覚えていらっしゃるんです。本当に人間味がある方でした。繰り返しになりますが、私がここにいるのは宇田川先生と八重樫先生のおかげだと思っています。

専門医制度の
立ち上げと変遷

片渕

では、今日の本題に入りたいと思います。先ほどからもたびたび話が出ていますが、まずは専門医制度について思い出話などを語っていただきたいと思います。

ガイドラインの作成について前半は吉川先生、後半は八重樫先生が随分関わられたのですが、何と言いましても塚本直樹先生がアメリカでのご経験を十分に発揮されていたというのも、記憶しておきたいことです。振り返ってみますと2002年に専門医育成検討小委員会というのがこの学会に設置されて、その翌年に修練カリキュラム作成として委員長に稲葉憲之先生がなられています。そして2004年に初代委員長として塚本先生が就任されまして、専門医制度委員会が発足、そこから色々なことが進んでいったわけです。やはり塚本先生との思い出ということで言えば、何と言ってもその後輩になられます嘉村先生、一緒に仕事された吉川先生、せっかくの機会ですので、塚本先生のお話や専門医制度のことをお話しいただけますか?

嘉村

塚本先生には、私が婦人科医になった時からずっとお世話になってきました。彼はアメリカでレジデントをされて、そして一旦日本に帰ってこられて3年程過ごされて、それから今度はアメリカのGynecological OncologistのBoard取得のためにニューヨークのMemorial Sloan Kettering Cancer Centerにて2年間研修をされました。そして一旦また帰ってこられて、Board Examinationを受けるために出ていかれました。

塚本先生は、知らないことには「自分は知らない」と仰る、絶対知ったかぶりをしない性格の方でした。それで専門医制度が絶対日本にも必要だとなった時も留学されたわけです。塚本先生は留学先でガイドラインの成立過程の一部始終を見てそして帰ってこられたんです。それで話を伺うと「トップのルイス先生や錚々たるメモリアルの部長たちもちゃんと試験を受けて、専門医になった」ということをいつも言っておられました。その影響もあって、結局、日本でも理事や関係者みんなが試験を受けて、専門医になるという制度が始まったわけです。

片渕

吉川先生が塚本先生の築いたものをベースにされて制度を築かれて行ったかと思うのですが、その辺りのご苦労などをお聞かせいただければ幸いです。

吉川

私はというと、塚本先生の段階では関与してなくて、その後の委員会くらいから委員として入りました。ただ塚本先生は当時、GOGのハイレベルな専門医制度を考えておられたみたいで、実際はそのまま日本に導入するのが難しかった。ですから塚本先生が提案され案を基盤にはしているのですが、結局日本の現状に合わせて、導入されやすい形にどうするかっていう議論が、そのあと進んでいったという形です。
施設認定の制度作りの最初のころ、認定施設の悪性腫瘍の症例数として年間100例を案としていましたが、現実的でなく、主要大学さえも該当しない可能性がありました。そこで、例えば専門医の存在などを加え、症例数を40例に下げたところ、多くの代表的な教育施設が認定されることが分かりました。ある大学などでは放射線治療の専門医が不在だったため、制度そのものを緩め、非常勤でも暫定的に認めるなどの工夫が必要でした。特に、広汎子宮全摘術の執刀症例数の基準を設定した際、婦人科腫瘍専門医がどうあるべきか議論の焦点となり15例としましたが、今の時勢の変化に伴い、この基準は変化していくと思います。

こうして制度によって各施設の教育レベルが上がっていくというのはありました。結構ストレスの多い選考でしたけれど、とにかく筋だけは通して、全体の合意が得られるような形にしていきましたね。また、研修会や教育プログラムも、プログラムA,B,Cの3つを作成し、専門医の申請や更新に必要な受講条件も最初は移行期として若干ゆるく設定しました。変現在では厳格化してA,B,Cの全ての受講が必須になっています。実は専門医制度の会議に出る中で、色々なことを要求されていくんですね。ですから、いつでも移行できるような準備をしていました。婦人科腫瘍学会は、専門医機構が関与してない制度の中では一番進んでいると思います。

吉川先生
吉川先生
吉川先生
吉川先生

片渕

振り返ってみると今のシステムがあるためには、まず2005年に指定修練施設をつくられています。まず施設を作るということですね。そのときに先程仰られた放射線治療専門医とか病理の専門医とかのご苦労があったのだと思います。
その翌年に初めて暫定指導医が受験して、328名でしたでしょうか、おそらく皆さん受験されたんじゃないかと思います。こうして初めて施設が決まって、教える指導医がいて、ここから本当の専門医が育っていったわけです。今は980名ほど、3倍にもなっています。
形はしっかり吉川先生に作っていただいて軌道に乗りましたが、例えばカリキュラムなどを改訂しなければいけない点が順次出てきます。その点、いわゆるクオリティを上げるお立場だった八重樫先生にその辺りのご苦労などをお聞きしたいと思います。

八重樫

私が委員長をしたのは2014年から2年間ですが、その前の2年間は指定修練施設小委員会の委員長として専門医制度に関わっていました。あの頃感じたのは塚本先生がつくられた、どちらかというとアメリカを基本とした制度があって、それを吉川先生の時代に日本向けに変えられていく作業をずっとされていたんだなということでした。日本の医療制度や社会の現実的と専門医制度との折り合いをどうつけていくかという点で吉川先生が苦労されていました。こういう試行錯誤を繰り返していく中で専門医制度が日本にも浸透していくのかなと勉強していた次第です。

引き継いだときに日本専門医機構の制度がいよいよ動き出して、いわゆる二重構造になりそうだという点が最大の課題でした。専門医機構の制度に移していく作業が2年間続いて、もしかしたら今も少し続いているかもしれませんけれど、そこが大きな仕事だったと記憶しています。

それから内視鏡手術を専門医制度の中にどう取り込んでいくかという課題もありました。腫瘍専門の先生方は、以前は内視鏡手術は悪性腫瘍には向かない、開腹でやるのがいいんだと考えられていた先生が大部分だったように思います。そこから10年くらい経ってきて、やはり内視鏡というのが悪性腫瘍の治療に入ってきたということで、ガイドラインでも書き方が変わってきました。また他の診療科では保険診療にも入ってきましたので、専門医制度のカリキュラムにも入れなければいけない、ということになり、たくさんの方々と議論しながら決めていった時代でした。今はそれらが完全に変わってきて専門医制度としての整備も完成というところまで来ているかなと思いますけれど…。最初の頃は内視鏡学会と婦人科腫瘍学会の立場に少なからず距離がありましたね。その後、双方から委員を出し合って議論を重ねたり、婦人科腫瘍学会でも内視鏡のセミナーなどをやったりするようになって現在のようになってきたと思います。

片渕

そうして腫瘍専門医のシステムが固まり、クオリティも上がっていく中、私がちょうど理事長をさせていただいた2020年からの2年間は、コロナ窩の真っただ中で専門医試験をどう実行するかというのはとても大変でしたね。特に最初の2020年はどの街も静かな状態ですが、やらないわけにはいきませんから。そこで本来は東京の1か所に集まっていただくところを全国5か所に分けて、感染に注意しながら実施するということで、無事に過去2回はうまくいきました。それと申請の仕方も前は紙ベースで導入していたものが、今ではウェブ申請ができるようになり、指定の修練施設の認定もウェブで実施しています。教育プログラムもウェブで受講するということも何の問題もなく行えましたし、本当に成熟した学会になったおかげだなというのを私はつくづく感じた次第です。