公益社団法人 日本婦人科腫瘍学会 25周年記念事業

第2回 座談会

治療ガイドラインが
確立されるまで

片渕

次はもう一つの大きな柱であるガイドラインについてです。現在この学会には5つのガイドラインがあります。卵巣がんが胃がんに次ぐ形で2004年に第一版を出して、子宮体がんが2006年、子宮頸癌が2007年。そしてこれについては私が担当しましたが、この時まで外陰がん・腟がんのガイドラインが世界にも無かったんですね。我々の直後にNCCNが出しましたが、外陰がん・腟がんは当時無かったものですから、まず日本から発信しようということで2015年に外陰がん・腟がんのガイドラインを発刊しました。さらに八重樫先生の時に「患者さんとご家族のための治療ガイドライン」というのを2010年に出しています。現在ちょうど改訂中で、この夏に第3版が出ますが、いずれも継続的に改訂を重ねているところです。今は5年ごとに改訂していて、その間早急に出さなければいけないニュースはアップデートの形でホームページに出していますので、随時発信するというのが現在のガイドラインの方針です。これまでの流れを踏まえて、八重樫先生にご発言をお願いいたします。

八重樫

ガイドライン委員会が立ち上がってからはかなり頻繁に会議をしてきました。ただ一番の問題はやはりコンセンサスミーティングでした。吉川先生にも「コンセンサスミーティングをやらない限りはガイドラインではない」と厳命されていましたから(笑)、それをどう乗り切るかが最大の問題でした。それで2003年の秋か2004年の春に、卵巣がんの1回目をやったんですね。これがものすごく盛り上がって、とにかく終わらないんです。次々と質問や意見が出て、コンセンサスとしてまとまらないところもありました。あのコンセンサスミーティングは今考えると良かったですね。私もああいうところで司会をさせてもらったのは、面白かったですし、大変良い経験になりました。いろんなご意見が出ましたし、全国の施設では思いがけないほど別々の治療をやっていたのがよくわかりました。例えば同じTP療法でも全然違うレジメンになっていたり。とにかくそういう議論の盛り上がりがあって、みんなが意見を言えるような雰囲気がこの学会にできたことは、その後の学会の様々な発展にとっても良かったのではないかなと思っています。

嘉村

福岡では、九州の地方部会に八重樫先生が来られて、それを普及させていくみたいなこともされていましたね。

八重樫

やはり最初にあたる2004年から2006年の間は、ずっと全国を行脚したような感じで、47歳までに47都道府県、全部を講演で回りました。色々な方、地域の方にもいろんなことを言っていただいて、それをメモしておいて、次のガイドラインには入れようかなとか、この辺はまずかったなとか、そういった情報収集をしながらやっていました。

吉川

反発はあまりなかったんでしょうか?

八重樫

どうしても合わないところは、例えば腹腔内投与とか、あの辺は最後までまとまらなかったんですね。でも「まとまらないのはまとまらない」としてガイドラインには記載して次の改訂までの宿題のようなことにしよう、という方針になりました。あの辺は宇田川先生が上手だったな。はっきり決めないで、そこはまとまっていませんと、それで終わりにしたんですね。ひとたびガイドラインが発刊されて紙になっちゃうと、それをスタート地点としてディスカッションを始めるので、紙にするって大事なんだなと感じました。

片渕

今の若い人たちにしてみると、どの領域でもガイドラインが出ているから、もちろん手元にあるものだと捉えていると思いますが、先ほど先生方が仰ったように、20年ほど前のガイドラインが発刊され始めた頃は、ガイドラインには後ろ向きの先生もいらしたほどでした。そういう時代からこのように状況が変わったことに、ガイドラインの歴史の中に加わらせてもらったひとりとして、感慨深いものを感じます。最初は低かったMindsの評価も現在では高い評価になりました。特に卵巣がんでは、2015年に改訂するまではCQ形式ではありませんでしたので、その時の改訂をきっかけにCQ形式に改め、高評価をいただきました。さらにガイドラインの英文編も発信していますので外国の方々も日本がどのように行っているかを理解してくれるようになりました。

片渕先生
片渕先生

私の後に現在の理事長の三上幹雄先生がガイドライン委員長をされて、ガイドラインの発刊後、どのように治療が変わったかなどを検証しようというところへ精力を費やされたんですね。そうでないとガイドラインに本当の意義があるかどうかわからないわけです。そこで日本産婦人科学会と日本婦人科腫瘍学会がタイアップして、その登録データを使わせてもらって、ガイドラインの項目に沿って、どのくらい実践されているのか、どのように方針が変わったか、など実際に検証できるようになりました。

片渕先生
片渕先生

八重樫

もう一つガイドライン作成で良かった点をあげますと、作成委員会のメンバーとして全国の専門家が集まったチームで長い時間をかけてディスカッションをするわけで、その一連の課程を通じて横のつながりが良くなっていったと思うんです。同じ状況で同じことを追っていく中で、今まで知らなかったことがわかったり、その後で別のところで共同研究したり一緒に発表したりと。そういった形で、全国に散らばっている婦人科腫瘍専門医たちが仲良くなる仕組みの一つにもなっているんじゃないかなと思います。

片渕

とても大変な作業でしたが、みんなで一同に顔を合わせるな中で、その時初めて知り合うような方もいましたので、先生が仰る通りだと思います。今はウェブで参加できるのはとてもいい環境なのですが、お互い話す機会が無いと知り合いになるチャンスがなくなっているというのも事実です。

嘉村

ガイドラインは英語版もあるんですね?

八重樫

はい、あります。最初は卵巣がんのガイドラインを勝手に英語版にしました。その後で日本癌治療学会から機関誌に投稿してほしいと依頼がきました。ガイドラインの論文が掲載されると雑誌のインパクトファクターが高くなるということもあったようです。ガイドラインを出すのは学会誌としてはだいぶ喜ばれるんです、引用数がかなり違うので。大腸がんのガイドラインを掲載したときの引用回数はすごかったですよね。その後、雑誌をJGO(The Journal of Gynecologic Oncology)に変えたんですね。癌治からは「残念だ」とだいぶ言われたんですが(苦笑)。

嘉村

JGOもうちのOfficial Journalですよね。

片渕

第一回の座談会の時も青木先生がそのことに触れておられるのですが、JGOを我々の学会の機関誌にするきっかけは、日本医学会に加入するにあたって英文誌を持っていなければならないという条件があったことです。この時、JGOの方でももっと国際化された学会誌になって欲しいというのがありましたから、お互いの思惑がうまくかみ合い、Official Journalとなりました。その2年後、晴れて日本医学会に加入できました。

嘉村

財政的にも日本婦人科腫瘍学会から一部サポートしてもらうことになって。確か青木先生の時にお願いして快く引き受けていただいたのを覚えています。

片渕

このような韓国との強い繋がりは、他のサブスペシャルティの領域ではありませんね。

吉川

野澤先生の時代に嘉村先生と雑談していた時に、結構悩まれていましたよ。野澤先生が向こうから色々要求されて(笑)。会っている時はいつもその話でした。

今後へ向けて、
次の25年へ向けた提言

片渕

さて最後に、この25年を踏まえて今という激動の時代に向けたメッセージをお願いします。この3年間の新型コロナウイルス感染症然り、色々な状況が瞬く間に変わっていく中で、どのような方向性を持って行くのか。第一回の時も色々な思いをお話しいただきましたが、先生方にも、次の世代の人たちへも伝えたい思いなどをお話しいただきたいと思います。

安田

時代がどんどん変わってきますし、あとは若い産婦人科の先生方の考えも変わっていくと思うので、その辺りにうまく対応しながら、理事の先生がうまく運営いただければいいかなと思っております。

嘉村

先ほどのガイドラインや専門医の話があって、それらは所謂Evidence Based Medicineなんですね。この辺に皆が慣れてきたというところで、それを婦人科腫瘍の分野でこの学会が先陣を切って、ガイドラインや専門医制度でうまくその辺を伸ばしていくような形が今後もいいかなと思います。鏡視下手術やロボット手術という流れは変えられないと思いますので、その辺りを今後…私は手が出せませんが、将来が楽しみでもあります。うまく治療に取り入れ、Evidenceを出していくことを当学会の目標の一つにしていただければと思います。

安田先生
嘉村先生 安田先生
安田先生
嘉村先生 安田先生

吉川

私も専門医制度やガイドラインはもちろん大事だと認識しているのですが、その一方で次の医療をつくるという観点で言いますと、JGOGとJCOG(日本臨床腫瘍研究グループ)、この2つをどう利用するかという発想がいると思うんです。むしろ既存のエビデンスを勉強しましょうというだけでなく、エビデンスをつくるということを若い人は興味があるはずなので、そこへどう導いていくかというか。JGOGでは教育という点をうまくやられていると思いますが、この学会自身も直接的にどう関わっていくか。臨床試験だけでなく、全国のアンケートなどでもいいのですが、何か新しい情報をこの学会が発信していくという。もちろん独立性も大事だと思いますけれど。

あと気になったのはJGOGとJCOGとの関係です。JGOGは特定の腫瘍のグループとしては相当立派なグループになっていますが、JCOGは厚労省や他のグループとの関係が強いです。JCOGからは婦人科も油断すると排除されてしまう。今後も油断すると簡単に排除されてしまう危険があるので、学会が後押しして色んな人が関わって、すなわち全国から色んな人を送り込めるような仕組みを学会主導でつくって、それらの組織を利用する。その辺りの関わり方も整理する段階に来ているのではないかと思います。

八重樫

この学会が25年経って非常に発展してきた一番の要因ですが、それは25年前に諸学会を統合するときに、本学会が何をすべきかというミッションをはっきりさせたからだと思います。目的をはっきりさせて、それに向けて今に至るまで皆が走っているのだと思うんです。はっきり言葉にはなっていないのですが、婦人科腫瘍をやる人たち、医師だけでなくいろんな人たちを育成するような場を提供する、というようなミッションに向かって走っていて、それが非常にうまくいっているのではと思うのです。

時代が変わってきたときにミッションを再度考える時期が来るかもしれませんが、そのときはまた皆で話をすることが必要と思います。統合される年より数年前あら当時の各学会の理事長・理事クラスの先生方がそのことを徹底的に話したはずなんです。「だからこういう学会が必要なんだ」とか「だから一緒にならないといけないんだ」と。それで「こういう学会をつくろう」という理想があって、それが良かったからこそ、今の私たちがそれに乗っかって走れているわけです。ですからミッションの再定義ですね。それが再度必要になってくるかもしれませんね。

吉川

いわゆるMission, Vision, Valueですよね。Missionをはっきりさせてかないと学会は専門医制度のポイント稼ぎにされてしまう。下手するとそう成り下がっていくのではないかと。本来はやはり先端的な議論をする場だったり、あるいは次の医療を作るために議論する場だったりするべきです。ですから八重樫先生が仰るMissionであり、その次の展開であるVisionやValueを明確にする必要が出てきたのではないかと思っています。

片渕

野田先生が第一回の座談会で仰っているのはまさにその点で、学会であるので、学術団体であることを忘れるな、アカデミックな団体であることを忘れるなといったことを仰っておられたと思います。確かに我々は学会の骨格を成すためにガイドラインと専門医制度を形造ってきましたが、次の25年は新たな方向に目を向けておかないと学会の存在は危ないのではという気がします。私が理事長の時に八重樫先生に言づけられたのは、国際化、特にアジア、韓国とのコネクションをしっかりしてくださいということでした。ちょうどコロナ禍に入ってなかなか、特に日本に来てもらうという環境にはなかったのですが、今回松江で開催される学術講演会では、アジアの先生方にたくさん来ていただく場になると聞いています。そういう点でも、国際化という点は忘れてはならないと考えています。